アナール学園

不実なる街の住人「アナール学派」のブログです。

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ギコ猫は噴水の横で愛を叫べるか?

「BARギコでの恋愛は可能なのだろうか?」
常連さんの一人に、こう聞かれたことがある。
BARギコでは様々な言葉が飛び交うが、ここまで素敵な発言は、なかなか聞いたことがない。流言蜚語や尾籠な話が四角い吹き出しで貼り出される中で、この発言は本当に心に響いてくる気がした。
と、感心してばかりもいられない。質問に答えなければならないのだ。
しかし、なかなか難しい問題だ。あまりに難しすぎて、その場は適当なことを言って誤魔化してしまった。
これじゃあダメだ。まるで、「赤ちゃんはどこから来るの?」と尋ねられたお父さんではないか…。ということで、おっちゃんは日課の焚き木拾いの手を休めて考えてみた。

BARギコは現実世界ではない。この時点で「恋愛は不可能」と断定する人もいるだろう。
しかし、こんなことをいう人は恋愛の真髄を知らない人であり、こんな人とは酒を飲んだり、その後に夜明けの屋台のラーメンを食ったりしたくはない。
恋愛は理性でするものではない。デカルトは理性は万人に備わっていると豪語したが、感情は負けず劣らず万人に備わっているものだ。そして、その感情が人を恋愛へと引きずりこむのだ。それに抗うことはできない。まるで、引力があるかのように強引にその世界に引きずり込まれてしまう。文字通り、恋は、するものではなく、「落ちる」ものなのだ。
それゆえ、そこにおいては対象がリアルであろうがヴァーチャルであろうが、そんなものは一切関係がない。笑うことなかれ、世の中には本気でヴァーチャルな世界の人間に恋をする人だっている。日本人は萌えっぱなしだし、イギリス人の少年は今でもジャンヌ・ダルクに初恋をささげる。アメリカ人の少女は宗教性抜きでイエスに恋をするし、宮本亜門はミロのビーナスで精通を迎えた。
そこに山があるから登るのだ、といった登山家がいたが、人は、そこにギコがいるから恋をするのだ。
いささか単純すぎるのではないか?との指摘をいただいてしまうかもしれないが、それで大正解!恋愛とは単純なものなのだ。理詰めで恋をする人などいるであろうか?A=B、B=C、ゆえにA=Cであるのであなたが好きだ、とか、有理数と無理数の基数が自然数の基数よりも大きいからキミにフォーリンラヴ!などという人がいたらお目にかかりたい。
人は、顔に夕日が作る影を見て恋に落ち、風が軽く持ち上げた髪の毛を見て恋に落ち、語尾の乱れを聞いて恋におち、指先のわずかな角度で恋におち、食事のスピードで恋におち、あまりの嫌さ具合に恋に落ち、ただボーっとしているから恋に落ちる。
BARギコで会話をしているうちに恋に落ちました、なんていうのは、かなり贅沢な理由を用意してもらったというしかない。
しかし、ここまで言っても、なおこう言う人がいるかもしれない。
恋愛ができるのはわかった。しかし、なんとも不毛ではないか。恋をしても、その人に会うこともできず、触れることもできない。それとも、お前はBARギコを出会い系サイトのように使うのが最良の道と考えているのか?
これはよい質問である。ぶっちゃけ、冒頭に挙げた常連さんも、こういう問題意識が根底にあったのではないだろうか。
確かにそうだ。よほどの手段を講じない限り、我々は相手の「中の人」にはたどり着けないのである。恋をしても、一生、その人の動きも、息遣いも、心臓の鼓動も感じられないのだ。この事実だけは、どう頑張ろうと変えようはない。
こういう視点からBARギコでの恋愛は不可能である、といわれれば、黙って首を縦に振るしかないだろう。
だがしかし、おっちゃんは、こんな人とは一緒にお風呂に入りたくないし、その後にマクラ投げをしたり、好きな人の名前を言い合ったりしたくない。
粋ではないではないか。恋愛は目的があってするわけではない。目的があるのなら、それはただの仕事だ。セックスや結婚が恋愛の最終目的なら、恋愛なんてのは目的地の決まっている旅のようなものだ。そこには、目新しさはあろうが、なんの楽しみも可能性もない。
アリストテレスはキーネーシスとエネルゲイアという二つの人間の態度を提示した。
簡単に言ってみれば、キーネーシスとは始まりと終わり(end=目的)のある運動のことであり、例えば「歩く」「走る」など、一点から発し目的地に着けば(すなわち、目的を達すれば)それで終わりという運動のことである。
一方、エネルゲイアとは「見る」という行為に代表されるような、見ること以外に目的を持たない、それ自身が目的である行為のことである。
人はキャバレーに「行くために歩く(キーネーシス)」し、キレイなお姉さんの胸元を「見るために見る(エネルゲイア)」のである。
さてさて、なぜ突然にこんな話をしたのかというと、恋愛というものはエネルゲイアなのではないか、と考えているからだ。
長い目で見た目的があるのではなく、その場で炸裂し、それ自体が目的であるようなものが恋愛なのではなかろうか?ちまちました戦略を立てて取り組むものではなく、その時その時、一瞬一瞬こそが目的であるものが恋愛なのではなかろうか?
バタイユは愛を、自己の消尽と呼んだ。何かのために投資することが愛なのではなく、そのためだけに自分を燃やし尽くしてしまうものが愛だ、と。これも同じようなことだ。
おっちゃんはそうだと思う。「愛は盲目」という言葉はこのことを言っているのだ。
おっちゃんは拾ってきたマキを割りながら、高らかに宣言しよう。BARギコで恋愛は可能である、と!恋せよギコ猫よ、と!
そして、出会いと別れを繰り返し、生を謳歌しようではないか!
それができないのであれば、結局はリアルであろうがヴァーチャルであろうが恋愛は楽しめないであろう。

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  1. 2005/05/24(火) 22:40:12|
  2. BARギコにて・・・|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2
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コメント

どうも

Love is real Real is love
Love is feeling Feeling love
Love is wanting to be loved ・・・
byレノン
  1. 2005/05/25(水) 22:52:14 |
  2. URL |
  3. (- _ -) #-
  4. [ 編集]

どもども!!

どうもです!
やっぱり、
all you need is love~♪
なわけですよ。
と、思いながら、日々長くなる夜を悶々と過ごしております。
orz 
  1. 2005/05/26(木) 21:07:22 |
  2. URL |
  3. アナール学派 #-
  4. [ 編集]

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