アナール学園

不実なる街の住人「アナール学派」のブログです。

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Beweis des Daseins Gottes(神の存在証明)

はたして「神」は存在するのだろうか?
などと、とんでもないことを考えてしまうことがある。
別に私は特定の宗教を信仰しているわけではないのだが、ぼーっと考えてしまうことがあるのだ。
ある人は、こんなことをしている私を鼻で笑うかもしれない。
「神などいるはずがない!!」
確かにそうかもしれない。こんな時代だ。神について考えると口走っただけでも、怪訝な顔をされるだろう。
世界は隅々まで調べつくされ、人間はその目で、原子と宇宙を見ることができるようになっている。
神など、どこにも入り込む余地はなさそうだ。
しかし、それでもなお神について考えることは私にとって魅力的なのだ。
完全、究極、最高の存在。
もし、そんなものがいたら?…じゃあ、どこに?…どうやって?
そもそも、存在するという証拠はあるの?
疑問は尽きない。
だが、こんな疑問に真っ向からぶつかっていった人々がいる。
そして、彼らは、それぞれの方法で神の存在を証明してしまったのだ。
今回は、そんな人間の限界への企てとも言うべき「神の存在証明」をいくつか紹介していきたいと思う。

神の存在証明は、大きく分けて三種類ある。
「宇宙論的証明」、「目的論的証明」、「存在論的証明」だ。この三つを、順を追って紹介していきたいと思う。

①宇宙論的証明
この世界において、どんな物事にも原因というものがあるはずだ。雨が振るから川が氾濫し、種をまくから芽が出てくる。勉強をしたからテストでいい点を取り、彼女とイチャつき過ぎたから浪人する。
そう、この世界は「因果律」、すなわち原因と結果の繋がりによって貫かれているといってもいい。
この世の中、AがあったからBがあり、AがなければBはないのである。
これは我々全てが納得し、かつ日々経験して知っていることだろう。
この点に注目して証明を行ったのは、トマス・アクィナス(1225-1274)である。
もし、全てのものに原因があるのなら、その原因をさかのぼり続ければどうなるだろう。
その行き着く先には、全ての結果の原因となる、唯一の原因にぶち当たるのではないだろうか。
世界をビリヤードにたとえ、そのゲームの流れを世界中の出来事と考えれば、そのゲームの中で起こる全ての出来事の原因は、最初のブレイクショットにまでさかのぼれるだろう。
彼はそれこそが神だと考えたのである。
つまり、この世界が原因と結果で覆われている以上、その究極的な原因が必ず存在するはずであり、まさしくそれこそが神なのだ。
この一見馬鹿げた証明を、現代科学が後押しする。
ビッグバン理論が、宇宙に始まりがあることを証明したのである。
そう、科学的に宇宙全体の原因が存在することが証明されたのだ。
これを神の力だと考えるか、それとも科学の領域と考えるかは意見が分かれるところだろう。
しかし、それ以上原因をさかのぼれない究極の原因の前では、理性は沈黙せざるを得ない。
実際、多くの物理学者は、この壁の前で神の名を口にしているのである。

②目的論的証明
「しかし、この世界は上手くできてるなぁ!!」
と感じたことのある人は多いのではないだろうか。
たとえば、猫の肉球一つとってもそうだ。
猫の肉球は、別に人間がプニプニして遊ぶためについているわけではない(別にそれでもかまわないのだが)。この肉球、実はクッションとなって、足の保護をするために付いているのである。
それゆえに、コンクリートジャングルで生きる猫の肉球は、少々堅めになっているのだそうだ。なんとも、上手くしたものである。
このように、肉球一つとっても、なんとも合理的に出来ているものだ。
その他にも、象の鼻、キリンの首、蝶の口、カエルの舌、カメレオンの肌など、思わずうなってしまうような物は多い。
それどころか、季節、気候、地形など、地球のシステムだって素晴らしく上手くできている。
もちろん、我々人間の体も驚きの宝庫だ。どんな精密な機械よりも、じつに上手くできている。
この点に注目し、証明を行ったのは、またしてもトマス・アクィナスである。
彼は、このような世界の合理性に注目した。そして、「このように世界が上手くできているのは、設計者が存在し、その設計者が目的を持って世界を作り上げたからに違いない」と考えたのである。
そして、その設計者こそが神なのだという。
この証明は「宇宙論的証明」よりも、日常的な感覚にうったえるものである。
自然に対する素朴な驚きという、ある意味人間の根源的な宗教的感覚から出発するこの証明は、案外と深いところで共感を呼ぶものがあるのかもしれない。
最近ではゲーデル(1906-1978)がこの形での証明を試みたことで知られている。

③存在論的証明
この証明は、アンセルムス(1033-1109)が発見し、デカルト(1596-1650)やライプニッツ(1646-1716)が発展させたもので、前にあげた二つの証明とは少し毛色の違うものである。
今までの二つの証明が、経験的事実から神の存在を証明していく「アポステオリな証明」といわれるのに対し、この証明は神の本質からその存在を証明していくという「アプリオリな証明」である。
つまり、「世界がこうなっているから神は存在する」というのではなく、「神の本質はこうだから神は存在する」という手段を取るのである。
さて、神の本質とは何か。
まあ色々考えられると思うが、これだけははずせないのが、「神は完全である」というところだろう。
神は完全であるからこそ神であり、不完全なものは神ではない。
では、完全ということはどういうことか。
これは、世の中に存在するあらゆる「性質」を備えているということだ。
「強い」「大きい」「善い」など、ありとあらゆる性質を備えているからこそ、完全だといえるのである(なお、「弱い」、「小さい」、「悪い」などの否定的な要素は、「強い」、「大きい」、「善い」などの欠如として考えられるので、性質とは言わない)。
そして、その性質のうちには「存在する」という性質ももちろんふくまれる。
ゆえに、神は存在するのである。
簡単に言ってしまえば、「神は完全なので、存在することもできるに決まっている」というわけである。
今までの証明とはまったく違った方法論で進められるだけあって、なんとも異様な雰囲気を持った証明ではあるが、考えてみれば妙に納得させられるような説得力を持っている。

さて、ずいぶんと駆け足で三つの証明を見てきたわけだが、どうだったろうか。
「意義あり!!」と叫びたい方も多くおられるのではなかろうか。
実際、これらの証明は厳しい批判に晒されてきている。とくにカント(1724-1804)の批判(critique)は致命的(critical)だった。
しかし、そのような事情は別にして、お読みになった方は、三つのうちのどれか一つにでも、多少なりとも新鮮な驚きを感じ取ってもらえたのではなかろうか。
冒頭でも書いたように、神の存在証明というのは、とりもなおさず人間の理性の限界への企てである。
人間の理性はどれだけ先にいけるか、どれだけ高く飛べるのか。
そして、限界に触れたときに感じる、驚異に満ちた世界の新しい空気。
まるで、暴風雨の中を行く鳥が、分厚い雲を突き抜けて静寂の空に飛び出したときに感じるような恍惚。
神の存在証明は、その瞬間を我々に与えてくれる
そんな時、人は神と出会っているのではないだろうか。
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  1. 2005/07/17(日) 21:42:32|
  2. アナール学派の雑感|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:4
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コメント

安定しつつ時には奇異的で連綿たる変容を見せてくれる自然の造形に臨んだ瞬間
私もそこに絶対的なナニかが存在し、その者によって世界が作られたのではないかと
錯覚に似た感覚を覚えることはあります。
私が割と欲張りなタイプの人間であるが故にそこに想像を絶する物があったときに
ソレを作り上げた更に想像を絶するような何者かの存在を望んでしまうのかもしれません。

神様というのは究極的にアナログな存在であるがゆえに客観的かつデジタルに証明するというのは難しいのだと思います。
その存在証明や存在の真偽こそ「神のみぞ知る」といったところなのでしょう。
  1. 2005/07/18(月) 11:23:03 |
  2. URL |
  3. Albatrus #NRpgbcug
  4. [ 編集]

どもども!

神はアナログ・・・そうですなぁ。
それゆえに、神は理性というデジタルより、感情というアナログにこそ、その姿を映すのかもしれませんね。
神を求める人の中には、その二つの板ばさみになって
「不合理ゆえに我信ず」
とのたまった人もいます。
「証明」というスタイル自体が、神の存在証明には適していないのかもしれません。

たとえば絵を描いたり、何かを作り上げたときに感じる感情。
はち切れんばかりの満足感、なんともいえない達成感。
そういうものの方が、どんな論理的な証明よりも「作り主」としての神の存在を雄弁に語っていると感じてしまうのは私だけでしょうか?
  1. 2005/07/21(木) 00:14:41 |
  2. URL |
  3. アナール学派 #-
  4. [ 編集]

私も神について考えたことがあります。
ええ、相当ヒマなので・・・
しかし、神の証明については1度も考えていませんでした。思えば、なぜ神が存在すると言う人が存在するのか を考えていたのでした。
そして結論は長いので自粛しますw

でも、神の凄いところは、
「存在する」 とした場合、確かにある程度は救われるところです。
  1. 2005/07/22(金) 20:56:57 |
  2. URL |
  3. ▼ #-
  4. [ 編集]

どもども!

「なぜ神が存在すると言う人が存在するのか」ですか。
うーむ。
これもなかなか難しい問題ですね。
なぜ、人は信仰を持ちうるのか…。

カールヤスパースという人が、こんなことを言っています。
「信仰とは、私が所有する何事かについての知ではなく、私を導く確信である」
これは、最も納得できる言い分ですが、やはり知(理性)は排除されています。
やはり、信仰と言うものは、極めて感情的な領域に存在しているようですな。

確かに、神の存在を信じれば、ある程度の救いは得られるのかもしれませんね。
しかし、『カラマーゾフの兄弟』のイワンのように、心のどこかで存在を信じているからこそ、神を憎む人もいるわけで…

ほんとに、人間って面白いですなぁwww
  1. 2005/07/26(火) 02:31:44 |
  2. URL |
  3. アナール学派 #-
  4. [ 編集]

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