アナール学園

不実なる街の住人「アナール学派」のブログです。

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真なる芸術の瞬間

ここに一本のテープがある。古びた60分テープが。
中には60分びっちりと曲が入っている。
友人のYが東京に行くというので、その惜別の意味をこめてYに送ったテープだ。
中身といえば、ギターを友人のNが弾き、俺が歌を歌っているというものだ。
今まで幾つかバンドをやり、何本かテープを作った。
しかし、このテープには特別な思い入れがある。
この60分テープ、なんと制作時間も60分なのだ。


つまり、このテープ、全て即興で作られたものなのだ。
Nが即興でギターを弾き、俺が即興でそこに歌詞付きのメロディーを乗せて作っている。
これが意外といい。MTRなどを駆使して長時間かけて練りこみ、喧々諤々して作り上げたモノより格段にいいのだ。
俺はそのテープを作ったときの事を、克明に覚えている。
それは最高の一時間だった。
即興のギター演奏、そして同じく即興のメロディーと歌詞を歌う。その二つがせめぎあう。
お互いがお互いの音を瞬時に読み合い、ズレを補い合い、サビをつくり、エンディングに持っていく。
勿論、考える暇などない。考える前に、とにかく次をひねり出さなくてはならない。
身につけた楽典など何の役にも立たない。むしろそれは足枷だ。
ただただ、先を見て、流れ出るものを流れ出させる。
訪れる一瞬一瞬を、即興で打ち抜いて流れるように進んでいく。
最高だった。何とも気持ちのいい時間だった。その時の間、俺は確実に日常の世界を抜け、真に芸術の世界に触れている実感があった。
では、それはどんな世界なのか?
突然だが、ここで、J・ラカンの考えを借用して考察をしよう。
論理の世界(すなわち我々の日常の世界)を抜け出す思考とはどういうものか?
論理は言語で行われる。すなわち言葉。つまり、音だ。ゆえに、論理の世界を生きる我々はゼロ速度から音速の間の世界を生きているといえる。
我々は瞬時に考え、判断する。そのスピードの最高点は音速なのだ。
しかし、俺と友人がそのテープを作っていた時間中は考えなどなかった。論理などなかった。いわば、論理を超越していた。
高速度航行可能の飛行機は音速を超えるとき、「パン」という音を立てるという。すなわち「ソニックブーム」だ。
回りくどい説明をしたが、こう言おう・・・。
即興の音を紡ぎだし続けていた我々は音速を超えた、ソニックブームの世界で音楽を行っていたいたのだ。
言葉を捨て、論理を捨てて、パンパンと音を立てて音速の壁を破り、ソニックブームの衝撃の中で音楽を行っていたのだ。
そして、この地点こそ、俺が真に芸術を感じていられた地点なのだ。
思考のソニックブーム、これこそが芸術の地点なのだ。
別にこれは独りよがりの理論ではない。A・ブルトンがシュールレアリズムという芸術運動で行ったオートマティズム(自動筆記、何も考えないで一気に文章を書いていく、いわば「お筆先」)も、この地点に立っていたことは間違いない。
(蛇足だが、ヘーゲルが言う理性による「絶対知」を超えた先に、真に生命に満ちた「非‐知」の地点を見たバタイユもこの次元に立っていたことだろう)
俺は未だに、あの60分テープを作った時が、至高の芸術的時間だったことに疑いを持たない。そう確信している。
「その証拠は?」「もっとその瞬間の説明を!」といわれる方がいるかもしれない。
しかし、それは無理な話だ。論理を超えた瞬間を論理で説明できるわけがないのだから・・・(芸術家の「社会的」無責任さもここに起因するのだろう)。
俺はもう一度あの時間に戻りたい。魂が沸き立つ瞬間の連続をこの身に浴びたい。
しかし、あれっきりだ・・・。
もう一度、ソニックブームを感じることができるなら、俺はいかなる対価でも払うつもりだ。
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  1. 2005/04/21(木) 02:49:27|
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